ステンレスの豆知識

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ステンレス鋼の発明史(4)

2008-02-23 09:54:09 | ステンレス
§4.2クロム鋼の研究に進む
高マンガン鋼の発明に成功したハドフィールドは引き続いて鉄べ一スニ元合金の研究を進め、1889年に「鉄とシリコンの合金について」、1890年に「アルミニウム鋼」を、さらに1892年には「鉄とクロムの合金」の研究論文を矢継ぎ早に発表した。
「鉄とクロムの合金」の論文は60ぺ一ジを超す長編であるが、前半はクロム鋼の歴史とフェロクロムの解説に割かれている。主題のクロム鋼の研究は前報までの実験方法を踏襲し、低炭素鋼に添加量ゼロから最高20%にわたってクロム量を段階的に変化させた15種の試料を調製した。

原料として良質の錬鉄を選び、フェロクロムは純分66%のものを用いたが、これは約6%の炭素を伴っていた。これらを耐火粘土製ルツボに装入して溶解したが、フェロクロムは融けにくいので、できるだけ高温で長時間保持しなければならなかった。
試験片番号としてNo.1176を付けられた試料の化学成分を表4.1に示す。

酸化ロスのために最高クロム分析値は16%台に下がり、またほとんどがクロム量の1/10以上の炭素を含むことになってしまった。
64mm角の鋼塊を29mm径の丸棒に鍛造し、一部はさらに平鋼や線に加工した。試料Mまではなんのトラブルもなく鍛造できた。試料Nは慎重に扱った結果、どうにか試験片を作ることができたが、鋼塊Oは加熱温度をいろいろ変えてもどうしても鍛造できなかった。
得られた棒と線の試料について物理的、機械的および熱的性質などを詳細に調査し、クロム量との関係を調べたり、珪素鋼やアルミニウム鋼と比較した。

主な試験項目は次のとおり。
機械的性質:硬度,引張り,曲げ,圧縮,ねじり
物理的性質:比重,磁性,比抵抗
熱的性質:変態点,融点,熱処理,溶接
その他:腐食,顕微鏡組織

これら試験のうち、変態点と融点の測定および顕微鏡組織の観察は、鉄鋼の同素変態の発見者として高名なパリの親友、オスモン[F1oris.Osmond]の全面的な協力を仰いだのであった。


出典:鈴木隆志 ステンレス鋼発明史 アグネ技術センター


ステンレス鋼の発明史(3)

2007-12-24 10:16:41 | ステンレス
第4章高クロム鋼の基礎研究(1):イギリス
§4.1高マンガン鋼の発明者
イギリスの鋼都・シェフィールドが誇る歴史的な発明家として、次の5人の先達を挙げることができる(発明年)。
①ルツボ製鋼法のB.ハンツマン(1740)
転炉製鋼法のH.ベッセマー(1856)
③タングステンエ具鋼のR.マシェット(1858)
④高マンガン耐磨耗鋼のR.A.ハドフィールド(1882)
⑤刃物用ステンレス鋼のH.ブレアリー(1913)
R.A.ハドフィールドがステンレス鋼史に登場するのは、クロム最高20%にもおよぶ広範囲の鉄クロム合金系について初めて系統的な研究を行ったからである。しかしそのとき、せっかくステンレス鋼成分を手掛けながら掌中の珠に気付かなかったため、発明者の栄誉を逃がしてしまった悲運の人だったからでもある。

RA.ハドフィールドはシェフィールドの専門学校を卒業したとき、名門大学へ進むかあるいは彼の父Robert Hadfie1d(1831-1888)が創業した鋳鋼工場を継くかで悩んだ。結局後者を選び、父から経営者としての訓練を受けながら、参考書を師として金属学の習得に励んだ。
やがて1878年のパリ万国大博覧会に出掛けたRA.ハドフィールドは、テル・ノアール会社[Terr Noire Co.]が展示していたマンガン鋼の研究に強い印象を受けた。それは、炭素鋼にマンガンを添加すると強くかっねばくなるが、2~3%以上に多くなるとかえって脆くなるというものであった。
テル・ノアール会社は高マンガン鋼の研究を断念し、代わりにベッセマーが発明した転炉製鋼法に必要不可欠とされた鏡鉄よりも、さらに脱酸・脱硫効率のよい高マンガン鉄合金の研究に力を注いだ結果、やがて80%マンガンを含むフェロマンガンの開発に成功した。

ハドフィールドはさっそくこれを入手し、純鉄に段階的に添加する一連の実験を開始した。このフェロマンガンは8%の炭素を含んでいたので、得られたマンガン鋼の試料はいずれもマンガン量の1/10前後の炭素を含むことになったが、このマンガンと炭素の比率が偉大な発明を生む鍵となるのである。
ハドフィールドがマンガン鋼の機械的性質を調べたところ、マンガン量が2.75%までは硬さとねばさが改善されるが、2.75~7%の範囲ではガラスのように脆くなり、試料を床に落としただけで砕けてしまった。
ところがさらに7~20%マンガンになると再びねばくなり、また約100ぴCの高温から水冷すると延性が著しく改善されることが分かった。例えばマンガン13.75%,炭素0.85%の鍛造材に'Water-toughened'(水靭法)と呼ばれるこの熱処理を施すと、引張強さが102kg/mm2一伸びが50%という驚異的な機械的性質が得られた。

この史上初のオーステナイト鋼が発明されたのは1882年の秋だったが、工業的に圧延に成功するまで公表は控えられた。やがて1888年の'Institutionof Civi1 Engineers'(土木技師協会)で、まだ30歳に満たない若き技術者ハドフィールドは、マンガン鋼にかかわる二っの講演を堂々と発表し、並み居る聴衆に大きな感銘を与えたのであった。

高マンガン鋼のオーステナイト組織は準安定なため、外力を受けると加工誘起変態を起こしてマルテンサイト組織に変わって硬くなる。鉄道レールのクロッシングや土木・鉱山機械部品を高マンガン鋼でっくると、内部がねばいまま表面が硬化して磨耗しないという、願ってもない特性が発揮されることになる。

高マンガン鋼が開発されてから1世紀以上経った現在でも,“ハドフィールドマンガン鋼"と発明者の名前を付けて呼ばれていることは、この発明がいかに画期的なものであったかを物語っているといえよう。



出典:鈴木隆志 ステンレス鋼発明史 アグネ技術センター




今更・・・冬のソナタ

2007-12-11 23:03:56 | 私生活
もう何年前になるのだろうか・・・冬ソナが大ブームを博したのは。


NHK総合テレビで5話から観始めた。NHKBS放送は既に終了していて、1~

4話が見たくてレンタルビデオに行くも・・・ない。何時行っても・・・ない。

レンタルが引っ切り無しの状態なのだ。・・・・痺れを切らして、DVD7巻を買っ

てしまった。


「チュサンをみてるとね、急にふうっと吸い込まれる感じがしたの・・・」

田中美里の声はイメージにピッタリだった。・・・実際のチェ・ジュウは以外にも声

が低く、えっ!・・・って感じだった。



もう、2年は見てないだろうか?・・・年末年始の休みに観てみようと思う。



雪のようにあわく消えてしまった・・・あの初恋に・・・まためぐりあえるなん

て・・・



ステンレス鋼発明史(その2)

2007-12-09 12:21:53 | ステンレス
第3章クロムを鉄鋼に合金
§3.1英国の研究からヒント
ヴォークランが18世紀末に“シベリアの赤い鉛"からクロ今を発見して以来すでに20年が過ぎていた。しかし、色鮮やかなクロム化合物の活躍をよそに、脆い金属クロムの利用は全く見向きもされなかった。この深い眠りを目覚めさせたのは、フランスの鉱山技師ベルティェ[PiemBerthier(1782-1861)]が1821年に発表した「鉄および鋼とクロムの合金について」の論文である。

この研究のヒントはイギリスからもたらされたのであった。前年の1820年にロンドンの王立研究所のストダートとファラデーが発表した「改良の目的で行った鋼合金の実験」の論文は直ちにフランス語に翻訳され、間もなく工業奨励協会の集会で討論された。このときベルティェは、ヴォークランが発見したまま利用されていない金属クロムを鉄に合金することを思い付いた。


§3.2「案ずるより生むが易い」
ベルティェはさっそくクロム鉱石と鉄鉱石をいろいろな比率で混合した複合酸化物を用意し、木炭と一緒にルツボに入れて強く加熱したところ、酸化物は完全に還元して金属クロムと鉄との均一な合金ができた。こんにち、ステンレス鋼の主要原料として使用されているフェロクロムの誕生である。このように思いのほか容易にフェロクロムの製造に成功した鍵は、鉄の存在がクロム酸化物の還元を促進するからだった。

ベルティェが用いたクロム鉱石は西インド諸島のサント・ドミンゴ非に近い島から採掘されたもので、36.0%のクロム酸化物を含んでいた。こうして17%クロムを含む高炭素フェロクロムを初めてつくったベルティェは、さらに最高60%クロムの特殊なサンプルも手掛けた。得られた鉄クロム合金はいずれも淡い灰色の輝いた結晶だった。おおむね硬く、脆かった。最も硬いものはダイヤモンドと同じようにガラスに深い疵を付けることができたが、それは乳鉢で細かく砕けるほど甚だ脆かった。というのは多量の炭素を含んでいたからに他ならない。
また、この高炭素フェロクロムは鉄に比べて融けにくく、磁性が弱、,酸によって侵されにくいことが分かった。このような性質はクロム量の多いものほど顕著になることも明らかにされた。
沸騰した王水のような非常に強い酸でも、高クロム鉄合金はわずかに侵されるだけだった。ベルティェは鉄クロム合金の耐酸性を指摘した初めての科学者として、フランスでは“耐酸合金研究の父"とたたえられている。


§3.3クロム鋼の刃物は切れ味抜群
ベルティェはさらに進んで、フェロクロムを母合金として2種類のクロム鋳鋼をつくった。クロム配合量は1.0%と1.5%で分析値は示されていないが、現用の高炭素クロム軸受鋼(炭素~1%,クロム~1%)に近い組成だったろうと思われる。これらをナイフとかみそりに加工したが、どちらも楽に鍛造でき、1%クロム鋼は純粋な鋳鋼よりも加工しやすかったという。

刃物としての生命である切れ味は共に申し分なかった。注目すべきことは、刃物に硫酸を付けて擦ると見事なダマスク模様が現れたことである。模様の中の白い部分はおそらく酸によって反応しない純クロムであろう、とベルティェは考えた。

このようにベルティェは、初めてフェロクロムをつくってその耐酸性を示唆し、さらに1%台のクロム鋼で切れ味鋭い刃物を手掛けた先覚者として忘れられないが、彼の名を高めたのは他にある。

フェロクロムとクロム鋼の論文を発表した1821年に、ベルティェは南フランスのアルルに近いボー村で、アルミナ水化物に富んだ粘土を発見した。地名にちなんでボーキサイトと名付けられたこの鉱石は、やがてアルミニウムの精錬に最適な原料として利用されるようになる。これらの功績によってベルティェは1827年にフランス科学アカデミーの鉱物部会の会員に選出された。


§3.4ファラデーの玉手箱
ベルティェの研究論文を読んだファラデーは、ちょうど貴金属入り合金鋼の大規模実験を進めていたときだったが、急いでクロム鋼の試作を追加し、翌1822年3月に発表した「鋼の合金について」の論文の終わりに書き添えた。
クロム量は1%と3%の2種類で、そのあらましは以下のとおり。

まず、鋼103.7gと純クロム1.0gをルツボに入れて熱風炉で溶解し、ボタン状に凝固させた。このボタンは容易に鍛造できた。硬かったが割れるようなことはなかった。表面を磨いてから希硫酸でマクロエッチしたところ、長く伸びた結晶が現れた。研磨後再び希硫酸で拭いたら、非常に美しいダマスク模様が見られた。
次に103.7gの鋼と3.1gの純クロムを溶解した。このボタンは1%クロム鋼よりも硬かったが、これも純鉄と同じ位の展延性があり、また素晴らしく美しいダマスク模様が得られた。研磨してこの模様を消してから大気中で加熱したところ、元通りの模様が現れた。テンパーカラーによるこのダマスク模様は,淡い黄色から青色まで変化した虹色の実に珍しい外観を呈していた。

このように、クロム鋼はダマスク模様が見事なので刃物として期待されるが、まだ切れ味を試していないのでその価値をいうまでには至っていない、とファラデーは結んだ。なお、原料の金属クロムは’pure'と称するのみで、分析値や製法などについてはコメントされていない。
それから1世紀以上も経ったある日のこと、王立研究所の地下室からファラデー直筆の”鋼と合金"のラベルが貼られた小さな木箱が発見された。この中に79個、合計3,500g余りの試料が入っていたがこれらは元ファラデー学会会長(1914-1920)で、程なく王立研究所所長(1932-1933)となるR.Aハドフィールド[Robert Abott Hadfie1d(1858-1940)の手にゆだねられ、当時の分析技術の粋を駆使して詳細な調査が進められた。

この中のNo.28と32の番号が付けられた試料は、1822年の論文に出ているクロム鋼であったが、No.28は玉虫色を呈していたので、一見して3%クロム鋼と思われた。クロム鋼の試験結果は表3.1のとおりで、クロムの分析値が低目なのは原料の金属クロムの純度が100%でなかったことと、溶解時の酸化ロスによるものであろうと解説されている。


出典:鈴木隆志 ステンレス鋼発明史 アグネ技術センター


吉田ばくろうライブ in 「元気です」

2007-11-25 09:50:39 | ライブハウス
11月24日は吉田拓郎が周南市の文化会館でコンサートをやる予定でした。ご存知の方もおられるでしょうが、体調を崩して急遽公演は中止になりました。

その残念会も含めて、フォーク酒場「元気です」でばくろうさんのライブがあり、観に行きました。ばくろうさん以外にもマスターを含めて3人が演奏しました。

最後は俺のリクエストに答えて「制服」を演奏してくれました。原曲よりも格好いいのです、これが・・・。大感激でした

演奏後、ストロークやハンマリングのコツ等を教えてもらいました。俺も今、制服を練習中ですが、とても追いつけるレベルではないですね。・・・しかし、練習あるのみです

次回12/29に忘年会ライブがあります。一次会は「ウッドペッカー」、二次会を「元気です」でやる予定だそうです。

皆さんも一度ライブを観てみませんか?

金属盗んでどうするの? 北京五輪特需で高騰続く中国へ

2007-11-01 20:31:36 | ステンレス
ステンレス製の車止めが抜き取られた公園=大阪府豊中市の「ふれあい緑地」

公園入り口の車止めや工事現場の銅線、火の見やぐらの半鐘、墓石の線香皿、水道の蛇口…。各地で金属盗が相次いでいる。都内では今年に入ってからの2カ月で、約200件。金属なんか盗んでいったいどうするのか。捕まった容疑者らは「高く売れるから」と口をそろえる。業者に買い取られた盗難金属は、北京五輪を控え経済成長が著しい中国へ。需要が多いから盗んできて売れば、すぐに金になる。金属盗が続発する背景がそこにある。


●増えるステンレス
警察庁によると、昨年1年間に全国で発生した金属材盗難は約5700件、被害総額は20億円にも上る。今年に入ってからは連日のように発生しており、被害は拡大する一方だ。

昨年との違いは、ステンレス盗の増加。都内では昨年16件だったが、今年は2カ月ですでに90件もあるという。 「1キロ当たり150円で(リサイクル業に)転売し、1回当たり10万円稼いだ」。横浜市で昨年11月、側溝のステンレスの蓋(ふた)を盗み逮捕された容疑者はそう供述。この事件が報道された後、ステンレス盗は急増したと、ある捜査関係者は指摘する。
「去年までの金属材盗難は銅線が多かった。この事件で、盗む側は『ステンレスは銅より高く売れる』と知ったのではないか」国際相場連動

日本鉱業協会(東京都)によると、ステンレスの原料となるニッケルは、価格が国際相場で上昇の一途。平成13年と比べ、今年2月末には7倍以上になっているうえ、2月だけで6回も史上最高値を更新した。

ニッケル以外の銅や鉛、亜鉛などの鉱物も軒並み高騰。最大の原因としてあげられるのが、建設ラッシュが続く中国での需要拡大だ。「中国の需要はここ3年ぐらいで倍増している」(同協会)

鉱物は需要が増えたとしても、新しい鉱山が見つからない限り供給は追いつかい。国際相場に連動して「鉄屑(くず)」の相場も上がる。「中国は数年前から世界中のスクラップを買いあさっている」(同協会)という。

首都圏では14年ごろ、住宅のアルミ製の門扉が盗まれる事件が多発。同協会によれば、当時の中国は日本国内よりも高い値段でアルミを購入していたという。 
警察当局も盗まれる金属の種類が、中国で需要が高い種類と一致しており、盗難金属の大半は最終的に中国に流れているとみている。


●素人の泥棒?
「盗難品ではちゃんとした業者は買わない。金属製品は高いといわれているが(盗難品を買うという)リスクがある以上、かなり買いたたかれることもあるはず」と指摘するのはリサイクル業者が加盟する非鉄金属リサイクル全国連合会(東都)。「青銅製の半鐘などは高い金にならない。鉄と銅の区別もつかない素人の泥棒がやっているのでは」とも話す。 

警察庁によると、摘発されるのはほとんどが日本人で、持ち運びが大変なことから共犯が多いのが特徴。だが、窃盗グループは小規模で、「爆窃団のような専門集団ではなく、緩やかな組織によるものではないか」としている。 同庁は「摘発した容疑者の突き上げ捜査を徹底しており、被害品が持ち込まれる鉄屑業者などの流通ルートにも注意を促して協力を呼びかけ、発生の押さえ込みを図る」と意気込みをみせるが、「手っ取り早い金もうけ」のため、警察と犯人のイタチごっこがしばらく続く可能性もある。

ステンレス鋼発明史(その1)

2007-10-30 13:42:51 | ステンレス
第1章クロムの発見
§1.1シペリアの赤い鉛
時は1760年代に逆上る。当時、ロシア帝国の新興首都としてまた西欧文化の窓口として、活気溢れるサンクト・ペテルブルク(旧レニングラード)に、プロイセンの鉱山監督官だったレーマン[JohanGott1obLehmann(1719-67)]が化学教授として招かれ、鉱物資源を調査していた。ヴォルガ川左岸に位置するエカテリネンシュタット(現マルクス)に近い、ある製錬所で見付かった赤い色の鉱石を手にしたレーマンが、化学分析のために塩酸に漬けたところ白い粉末[塩化鉛]が沈殿したので、この鉱石は鉛を含んでいるとラテン語の記録を残したのは1766年のことといわれる。

それから数年後の1770年に、“シベリア・ウラル・アルタイ山脈探検隊"のリーダーで博物学者のパラス[PeterSimonPa1las]が、ウラル山脈東麓のエカテリンブルクに程近い鉱山で採掘された赤い鉱石を分析し、鉛のほかに硫黄や砒素などを含んでいると報告した。この粉末は鮮やかな黄土色で、またオイルで練りやすいので、細密画用の絵の具に適しているとパラスが指摘してから、この鉱石は“シベリアの赤い鉛"と呼ばれ、ヨーロッパの芸術家達の間で画材として珍重されるようになった。

採掘された鉱石は、いったん、いかだに載せてオビ川まで下ろし、さらに船に積み替えて北極海沿岸に移し、翌年の短かい夏の間に西ヨーロッパヘと運んだので、時には3年も掛かることがあった。人荷量もわずかだったから価格が高くなるのは当然で、品質の良いものは金と同じ値段で取引されたという。

シベリアの赤い鉛はCrocoite'クロコアイト、和名では'Red Lead Ore'を訳して紅鉛鉱と呼ばれる天然のクロム酸鉛で、純粋な結晶の分子式はPbCr04で示され、一酸化鉛(Pb0)68.9%と無水クロム酸(Cr03)31.1%を含む。

§1.2革命の同志がクロムを発見

クロムの発見者となるヴォークラン[Louis Nico1as Vauque1in(1763-1829)]は、フランスのノルマンディー地方の小作農家に生まれた。幼いころから畑仕事を手伝っていたが、勉強好きな素質が司祭の目に留まり、14歳になってルーアンの薬局で働くことになった。この時ヴォークラン少年の目が初めて化学へと開かれたのであった。

その後ヴォークランはパリの薬局へ移ったが、程なくして著名な化学者フールクロア[Anto㎞e Frangois Fourcroy]の研究室の助手に採用されてから、分析化学者の道を歩むことになった。
やがて1789年を迎える。この夏にフランス革命の火ぶたが切られたが、このころヴォークランの所に"シベリアの赤い鉛"の分析依頼があった。友人の物理学者マカート[L.C.H.Maquait]と共同で分析したところ、鉛のほかに多量の酸素と鉄やアルミナを検出したという。

その後も鉱物学者や化学者らによって赤い鉛の分析結果がいくっか報告されたが、結論はどれもまちまちだった。そこでヴォークランは再び赤い鉛の分析に取り組むことにし、実験を重ねているうちに次の手順で分析したところ、未知の金属を含んでいることを発見した。

まず粉砕した鉱石に炭酸カリウム水を加えて炭酸鉛を除き、次に抽出された黄色の〈クロム酸カリウム〉溶液に塩酸を混ぜたら〈クロム酸の〉結晶が遊離したので、これを大気中で加熱して酸化物に変え、最後に、木炭と一緒に黒鉛ルツボに入れて赤熱したところ、灰色がかった金属の塊が得られた。

やがて1797年の半ばに、『鉱山ジャーナル』誌に「シベリアの赤い鉛とそれに含まれている新しい金属の研究」のタイトルで、ヴォークラン名の研究報告が掲載された。彼の肩書は、鉱山監督官で鉱山学校の化学薬晶管理人となっている。ヴォークランは新発見の金属を"Chrome"と名付けた。

新金属はいろいろな化合物をつくるが、それらはどれも異なった色を呈していることから、鉱物学者アユイ[Rmn Just Hauy]の提案に従って、ギリシャ語で“色"を表す'khroma'にちなんだものという。

ヴォークランは続いて11月に科学アカデミーで白い針状の結晶を示しながら、クロムの性質として、脆く、たいへん融けにくく、また酸に侵されにくいことを報告し、さらに翌1798年早々の『化学年報』誌に、続けて二つの報文を発表して、化学関係者にも紹介した。

ヴォークランがっくった金属クロムが脆かったのは、木炭還元法によったために多量の炭素を含んでおり、一部は“炭化クロム"だった疑いもある。彼はこの砕けやすい金属クロムの工業的用途については、それほど興味を示さなかったといわれる。

ヴォークランがクロムを発見したころのフランスは、まさに世紀末の乱世の最中であった。革命派から同志[Citoyen]と慕われていた彼の名は、ベリリウムに続くクロムの発見によって、フランスの誇る分析化学者としても広く知られるようになっていった。やがて1809年にフールクロアの後を継いでパリ大学教授になっても、ヴォークランは相変わらず寝食を忘れて研究に没頭した。これらの成果は376編に及ぶ膨大な数の研究論文として残されており、まさに“実験の虫"の異名にふさわしい精力的な分析化学者であった。

§1.3一歩遅れたベルリン
ヴォークランから数か月遅れて、彼とは別個に、ドイツの高名な分析化学者クラプロート[Ma111in Heinrich K1aproth(1743-1817)]も「赤いシベリアの鉛から新しく発見された金属について」と題する論文を発表した。

クラプロートはその時、ベルリンの王立砲術専門学校の化学教授であつた。すでに1789年にピッチブレンドからウラン酸化物を、続いて1795年には金紅石からチタン酸化物を発見したばかりでなく、数多の鉱石分析法も創案していた。名誉にこだわらないその人柄とともに、ドイツ分析学界の最高峰として尊敬されていた。

1797年も終わろうとするころ、クラプローはシベリアの赤い鉛のなかに、未知の金属が含まれていることに気付いた。すなわち、鉱石を塩酸で溶かして鉛塩化物を分離し、残りの溶液に炭酸ナトリウムを飽和させたところ、青みがかった金属化合物を得た。クラプロートはさっそくこのサンプルを『化学年報』の編集長に送り、またこの化合物に燐酸塩と棚砂を混ぜて木炭の上で溶融したところビーズ玉状の金属を得たが、赤い鉛の試料が途切れてしまったので、しばらく実験を中断せざるを得なかった。

このため同じころにフランスで研究を進めていたヴォークランに、第1発見者の名誉を譲ることになった。クラプロートが化学者になったいきさつもヴトクランに似ている。幼いころに生家が火災に遭って家運が傾てしまったため、16歳で薬局へ奉公に出され、徒弟として働きながら化学を勉強したのであった。クラプロート名の研究
論文は200編を超え、また1810年にベルリン大学が創立された際には、67歳の高齢にもかかわらず請われて初代化学教授となり、生涯を閉じるまで若い化学者達の教育に尽力した。

§1.4クロム鉄鉱
クラプロートがシベリアの赤い鉛からクロムを発見した1798年に、サンクト・ペテルブルクの宮廷薬剤師だったゲッティンゲン出身の化学者ローヴィツ[Tobias Lowitz]が、北ウラルで採掘された鉄鉱石を分析して多量のクロムを含んでいることを見いだし、この鉱石はクロム酸鉄に違いないと結論したと伝えられる。これはクロマイト[Chromite]と呼ばれ、FeCr204の化学組成からなり、やがてフェロクロムに還元されてステンレス鋼の主原料として使用されることになる。

またこれとほとんど同じ頃に、フランスのヴァール県のガサン近郊でもクロム鉄鉱の鉱床が発見されたといわれる。

第2章貴金属入り合金鋼を研究
§2.1あこがれのダマスカス剣
聖地エルサレム奪還のために、11世紀末から170年余りに亘ってヨーロッパのキリスト教各国から十字軍が派遣された。このとき遠征軍の騎士達は競ってダマスカス剣を土産に持ち帰り、これを帯びることを誇りにしたと伝えられる。類いまれな名剣として知られたダマスカス剣は切れ味が鋭く、しかもしなやかで、波紋あるいはダマスク[damask]と称する日本刀の銃に似た渦状の紋様がその象徴とされた。

ダマスカス剣は当地の刀鍛冶の手でっくられたが、その素材ははるばるインドからペルシャ商人によって運ばれた“ウーツ鋼"を使用したのであった。'wootz'とは南インドのカナラ語で“鋼"を意味する'ukke'から転訛したものといわれ、マイソールやサレムが主な産地だった。

ウーツ鋼の製法はおおむね次のように考えられている。まず、純度の良い鉄鉱石を還元して半溶融状態の粒鉄(ルッペ)をっくり、これを良質の木炭か生木と一緒に耐火粘土製のルツボに入れて加熱する。やがて浸炭反応が進むと融点が降下してルッペが溶融するので、その後に徐冷して鋼塊とした。

さて、イギリスの鋼都・シェフィールドでは14世紀ころから刃物類を生産したといわれるが、素材としては浸炭鋼を充当していた。このつくり方は、耐火粘土製ルツボの底に敷き詰めた木炭の中に、鍛鉄あるいは錬鉄と称する低炭素の鉄棒を置いて加熱し、2週間ほどの長時間にわたって融点直下に保持するものであった。製品は火ぶくれ状を呈していたため“b1ister"(泡鋼)と呼ぱれ、炭素量は表面に多く内部ほど少なかったので品質にむらがあり、選別して使った。

このように鋼は融かすことができないものとされていた常識の壁を破ったのは、オランダ系イギリス人の時計師、ハンツマン[Benjamin Hantsman(1704-1776)]である。時計や錠前用ばねの粗悪な品質に長い間悩まされていたハンツマンは自ら良質の鋼をっくるべく志し、均質化と併せて不純物を除くためには完全に溶融させることが必要であると考えた。そして高い温度が得られる溶解炉の設計、燃料用コークスの選定や耐火性の優れたルツボの製作などの多くの難問をひとつずつ解決した結果、1740年に画期的な“ルツボ鋳鋼法"を開発した。成功の鍵は緑色のガラス粉末をフラックスとして用いることで、これが産業スパイによって盗まれたとも伝えられる。

フランスに押されて斜陽化しつつあったシェフィールドの刃物工業が、ルツポ鋳鋼法によって息を吹き返すことができた。しかし、ルツボ鋼からつくった刀剣はダマスカス製にはまだ太刀打ちできるほどではなかったし、もちろん波紋は見られなかった。ダマスカス鋼の復活には、ルツボ鋼誕生から200年を超す長い年月が必要だった。

§2.2インド鋼に魅せられた刃物商
18世紀に入ってイギリスがインドを植民地化すると、古代インドの鉄鋼に対する関心が急速に高まってきた。なかでも注目されたのは旧デリーのイスラム教寺院の中庭に直立する巨大な鉄の柱、いわゆる"デリーの柱"であり、またダマスカス刀剣の原料とされたウーツすなわちインド鋼であった。

1818年の暮れ近くのこと、ロンドンの刃物師、ストダート[James Stodart(1760-1823)]から王立研究所[Roya1 Institution]にインド鋼の調査が依頼された。ストダートは“外科医用器具、かみそり、その他高級刃物"を製造・販売していたが、彼の扱う刃物は切れ味が素晴らしいぱかりでなく、刃こぼれがしないとの評判が高かった。その理由は、インド鋼を使用していることに加えて、当時ではまだ珍しかった“焼戻し"を、しかも正確な温度管理のもとで実施していたからであるとされた。

ストダートは早くからインド鋼に関心を持ち、1795年にはインド鋼を鍛造してペンナイフを作り、国産のルツボ鋼製品よりも優れていることを示したといわれる。その後ストダートは東インド会社に対して、インド鋼を再溶解して鋼塊を造り、さらに鍛造して輸出するよう提案した。彼自身も輸入インド鋼を再加工して高級刃物の製造販売へと進んでいったが、これに満足することなく、国産のルツボ鋳鋼から良質の刃物を作るべくあれこれと模索を続けた。

しかしその努力も空しく、実を結ぶまでには至らなかった。




出典:井上隆志 ステンレス鋼の発明史 アグネ技術センター

岩国錦帯橋

2007-04-21 17:26:08 | 私生活
4/15(日曜日)、家族と錦帯橋に行きました。

家族揃ってのお出掛けは久しぶり。

生憎、桜は散っていて・・・。

ロープウェアーで岩国城に登ると、景観はやっはりすばらしい・・・。

次回は夏の花火大会だ。

詰碁100題

2007-04-21 13:28:30 | 囲碁
NECの対戦型・デジタル詰碁シリーズの「入段編100」から拝借した黒先白死の100題です。

1,2は簡単なので3問目からスタートします。

では、どうぞ!

2.ステンレス鋼の歴史 2.1ステンレス鋼の発見(その2)

2006-06-04 20:49:03 | ステンレス
それから20年余り後、ロンドンの王立研究所の若き化学助手FaradayはStodartとの連名で、初の合金鋼の論文を発表した。研究の目的は国産のるつぼ鋼に各種の貴金属を添加して、インド産のウーツ(wootz)鋼よりも優れた刃物をつくることにあったが、貴金属入りの鋼は湿った大気中でも曇らず、さびないのではなかろうか? との期待もあった。79種類の合金鋼試料を溶解して調べたところ、刃物には0.2%のAg、あるいは1%程度のPt族を添加したものが良く、またPt10:鋼80の合金は屋内に長く放置してもさびなかったという。史上初のステンレス鋼は白金鋼であった!


出典:ステンレス協会編(長谷川正義監修)ステンレス鋼便覧-3版- 2003.7.31初版3刷発行 日刊工業新聞社